豪州米のパイオニア

「高須賀穣ーオーストラリア米のパイオニア」

 ギャリー・ルウイス博士著

1.オーストラリア米のパイオニア2.高須賀家3.ティンティンダー西部へ4.ナヤおよびティンティンダーにおける試練5.アメリカ産業の知らせ6.初の米商業販売:スワン・ヒルでの高須賀ジョー7.タカスカ種を用いて、ビクトリア農場での試み8.再度ティンティンダーへ9.関心の薄れ10.若き日の高須賀マリオ11.「タカスカ種」を用いて、ニューサウスウエールズ州北部での試み12.ジョー、日本へ帰る
高須賀賀平は松山藩の料理長でサムライであった。賀平は息子の伊三郎(穣)が18歳のとき、その家督を穣にゆずった。穣は松山地裁判事前島道元の娘、前島イチコと結婚した。

この絵にかかれた1905年にはオーストラリアから日本へ、4本の道が通じていた。すなわち穣、イチコ、幼い息子昭と幼い娘の愛子である。1906年には高須賀ファミリーに対し、コメ作りのために200エーカーの土地が政府から割り当てられた。

絵の右下には高須賀家の様子が描かれている。穣も昭もシャベルを持っているが、これはオーストラリアの農業発展のために死力を尽くしたと言う彼らの苦闘を物語っている。イチコが穣の後ろに立っているが、男2人の戦いを(まだ生まれぬ次男のマリオとともに)見守っている。娘の愛子はその母と家族を支えるように立っている。さらにその後ろには仕事を共にした「松」、「愛媛」「ロフティ」と名付けられた馬たちが描かれている。

絵の中心は高須賀家の土地である。家は賀平が1908年に日本からオーストラリアへ持ってきたモミの15袋から芽生えたコメを表わす小さな点にかこまれている。穣はこのモミからよい品種を選んでこの絵の右側に描かれている水田に植えたのである。

何年もの間河は洪水し、高須賀家の努力が無に帰す年が続いた。またある時には河の水がすっかり干上がってしまった年もあった。穣と昭は大変な努力をはらってこの絵にあるような洪水をコントロールするための堤をつくった。

1914年、穣はついにコメの商業生産に成功した。その半分をニューサウスウェールズ州の農務省に売り、昭は自転車に乗ってモミとコメ作りの技術をリートンまでもたらした。高須賀のモミはリートンではじめに試みられたコメ作りに使われたのである。それから反収の高いジャポニカ米の研究に力が注がれ、10年後にはオーストラリアの農業の中でも最も成功を収めたコメ産業へと発展することとなった。

1939年、穣は愛する継母が松山で死んだため帰国したが、このことは一家から離れる一本の道として描かれている。彼の通る道で稲穂が頭をたれて尊敬の意を表わしている。1940年2月15日、高須賀穣は永遠の眠りにつき、両親の墓に葬られた。

オーストラリアのコメ農家と高須賀穣、イチコの子孫は彼らの苦闘の歴史がオーストラリアと日本を結ぶ歴史の中で生き続けることを望んでいる。1994年3月、オーストラリアコメ生産者の代表が、松山市の高須賀穣の墓を訪れて、オーストラリアンライスのご飯を墓前に供えた。

「高須賀穣-オーストラリアコメづくりのパイオニア」の絵は1994年6月、高須賀穣の4人の孫を含むオーストラリアの訪松山使節団から松山市民の皆さんにプレゼントされた。

高須賀イサブロー(通称ジョー、1865~1940)は妻である前島イチコ(1874~1956)、長男ショー・ノブロー(1900~1972)、長女アイコ(1903~1970)とともに1905年3月14日メルボルンに到着した。ジョーはこれ以前に日本国外務省に勤務するため渡豪したという報告もされているが、確認はされていない。当時施行されていた差別的な「白豪主義」移民制限法のもと、高須賀家は12ケ月間の免除証明書に基づき、入国を許可されたのだった。

当時オーストラリアには約3千5百人の日本人が住んでいたがその多くは、北部で真珠の採取およびさとうきび産業に従事してた。高須賀家はビクトリア州における日本人の移民家族では最大で、他の多くの日本人移民達とは異なっていた。ジョーは愛媛県松山市で高須賀カヘイの一人息子として生まれた。父カヘイは地元の大名に仕え、侍の地位を得ていたが、ジョーが18歳の時、家の主導権および家督相続権を息子に譲った。ジョーは東京(慶応補習学校)およびアメリカ(インディアナ州ディ・ポー大学、ペンシルバニア州ウェストミンスターカレッジ)に学び、1896年学士号を取得し、翌1897年彼はヨーロッパ経由で日本に帰国した。1898年立憲政友会の代表として衆議院に当選し、同年イチコと結婚した。

イチコは地方裁判所判事、前島ミチミトの娘で名門渡辺裁縫学校(東京家政大学の前身)に学び、結婚2年後、ショーが生まれた。選挙法の改定および二度にわたる多額な費用を要する選挙運動の後、ジョーは1902年再出馬を断念した。その後、オーストラリアに到着するまでの間、一家の形跡は定かでないが、アメリカに居たことが考えられる。1903年アイコが誕生した。

オーストラリアに来て最初の18か月間、ジョーはメルボルンのクイーンストリートおよびリッチモンド郊外で輸入業(高須賀ダイト・アンド・カンパニー)を営むかたわら、 余暇を利用してストット・アンド・ビジネスカレッジで日本語を教えた。滞在延長申請に遅れた彼は、 1906年7月、コモンウェルス移民当局より6か月以内にオーストラリアを出国するよう命じられたが、 日本総領事が介入し、一家は再度申請をしないという条件のもとに1906年3月にさかのぼり、12か月の滞在延長を許可された。

ジョーは残留を望んだ。彼は輸入業者として、オーストラリアに持ち込まれる大量の米に注目し、 現地での栽培が可能であると確信していた。米は1トンあたり22ポンド(£)になった。 彼はオーストラリア残留と米の栽培との間につながりを感じており、日本とアメリカ両国で米の栽培を観察したことも手伝って、 成功させるのに十分な知識を備えているものと自負していた。持ち前の外交・政治手腕に加えて、 コモンウェルス・アナリスト、W.P.ウィルキンソンの援助により、ジョーはトマス・ベント州知事および土地・調査大臣との面会の機会を得た。 その時彼は米の栽培を次のように説明した。

(稲作は)非常に困難で成功させるためには特殊な知識を必要とします。 日本では、何世代にもわたって稲作を生業としてきた農家の仕事とされています。 米は厄介な作物で、多量の水を用するため、病気にかかりやすく、栽培に失敗することもしばしばあり、日本でも飢饉を引き起こすことがあります。 その一方で、稲作は現時点で他の作物を栽培するのに適さない湿地帯を利用する有効手段となります。

両者は高須賀の貫禄と決意に動かされ、7月、ビクトリア内閣は試験的な稲作を目的としてマレー川岸の300エーカーを開放することを決定し、以下の通告がなされた。

稲作用の土地供給
マレー川流域スワン・ヒル下流約14マイルの臨界地
「カデュック」入植地とマレー川の間に位置する
タチェラ郡ティンティンダー西部教会区内の300エーカー
この土地は毎年洪水に見まわれる。
当選者は1エーカー6ペンスで5年間にわたる土地占有権を与えられる。
条件は稲作を行なうこと、
そして1エーカーあたり最低10シリングの歳出を5年間継続して供給すること。
契約完了時に土地省の条件が十分に満たされれば、
1エーカーあたり年間3ペンスで永久貸与される。
この地代は10年ごとに再考される。
申請書提出先はメルボルン、土地事務官。1906年8月31日金曜日締切り。

高須賀は即刻申請し、返事を待たずに家族を連れてティンティンダー西部へ移り家を借りた。彼は地元の土地理事会に「生涯のほとんどを稲作に費やしてきた」と告げ、日本では彼の父が10,000エーカーの土地を所有し、そこで稲作が行なわれていること、アメリカにおいて二度にわたる稲作を試みたが、「低価格」が唯一の原因で失敗に終わったことを伝えた。歴史家デイビッド・シッソンはこの話しが「誇張」であるとして、高須賀が日本でも他のどこに於いても農業に携わった経験はないと考えている。理事会委員にどのようにして生計を立てていくつもりかと尋ねられた彼は松山市の近く、末広町に土地を持っていて、そこには家屋と8棟の小屋があると答えた。さらに泉町には農地(224平方メートル、シッソンは、その土地は灌漑されておらず、稲作には適さないとしている)、住宅地(264平方メートル)そして7棟の小屋があると述べた。家賃および地代は小学校校長の年棒に相当した。高須賀は500ポンド(£)の資本金と1トンの米の種子を元手に、地元の農夫(身元不明)と共同で稲作をすることを考え、敷地に高さ5フィートの堤防を築いてマレー川の氾濫に備えようと提案した。

高須賀はティンティンダー西部の第47貸付地の300エーカー中の200エーカーを米の試作用として割り当てられた。この土地はマレー川に隣接する低い沖積湿地帯、そこから少し上って黒色のローム層、さらに上ったところの砂地から成っており、南側の境界線は曲がりくねったガンバウアー水路となっていた。この貸付地は赤いゴム林(現在のヴィニフェラ国有林)に囲まれていて、毎年雪解け水がマレー川に押し寄せる春には洪水を引き起こした。洪水時の交通手段は船であった。残りの100エーカーは二人のオーストラリア人に50エーカーずつ割り当てられた。当時ティンティンダー西部に入植していたのはハンガーフォード、ゴールディング、バーデット家だけのようなので、このうちの二家族も稲作を試みたことが考えられる。日本領事の要請に応じて、コモンウェルス移民当局は賃貸借期間中、高須賀の滞在延長を許可した。

高須賀は一時も無駄にしなかった。ティンティンダー貸付地が調査される間、ナヤでS.P.ワトソンから借りた土地を耕し、1906/07年の収穫期に向けて35エーカー分の米を蒔いた。この際、高須賀は小麦の栽培方式を用いたようだが、灌漑を行なったかどうか、また行なったとすればどんな様式を使ったかということは知られていない。いずれにせよ、羊が敷地に入り込んだため、種子はほぼ全滅した。シッソンは種子が不適当なものであったとしているが、詳細については明らかにしていない。1907/08年用にジョーは日本から三種類の種子を輸入し、ティンティンダーから約20キロのところにあるピアンギルでE.オライリーから65エーカー(75エーカーという報告も一部にはある)の土地を借りて、種子を蒔いた。しかし、水不足のため、2、3袋の収穫しか得られず「そのうちの一部は黒く、他の一部は緑で、使い物にはならなかった。」失敗が二期続いた。

1908年の前半、ジョーはティンティンダー西部に移った。そこではおよそ15フィート×18フィートの杭と平板で作られた粗末な小屋が一家の住居となった。ジョーの父カヘイが渡豪し、約一年間滞在した。カヘイは息子によると「稲作の達人」で、様々なジャポニカ米の種子を15袋持ってきていた。父の助言はこれらを使って試作し、最適な種子を「環境順化させる」というものであった。

ジョー、カヘイ、そして請負業者は10エーカー分の稲作用に準備された土地に、1908年堤防を築きはじめた。しかし、堤防の不備と洪水により、植えつけはできなかった。高須賀は政府に堤防設立の援助を求め、さらに牛を買うための資金繰りを試みたが、要請は両方とも拒否された。高須賀一家は1909年を、約40エーカーの土地を土手で囲み、耕作し、堤防を築くことに費やした。にも拘らず、再度大洪水により土地は洗い流されてしまった。彼の土地は荒廃し、築堤および灌漑作業は大きな被害を受けた。一家は川の氾濫がおさまるまで、ナヤに避難しなければならなかった。ジョーはナヤで1エーカー分の米の植えつけを行なったが、それも洪水の影響を受け、失敗に終わった。また一年が過ぎた。

1909年の終わりに、ジョーは日本から二人の専門家を呼び寄せ、共同で稲作ができるよう政府の許可を求めた。彼は気候条件により農作業が困難であることを述べたが、この要請も拒否された。

1910年に高須賀家に3番目の子供、マリオ(日本ではよくある名前で、「一万リーグ」と訳され「遠い距離」を意味する)が生まれた。
この命名はおそらく両親が感じた激しい孤立感を表すものであり、翌年のカヘイの死によって望郷の念は更に強まった。

ジョーは1910年、米の試作が継続できるよう1.25マイルの堤防を立てることに奮闘した。またしてもマレー川は我関せずとばかりに全てを洗い流したが、彼は何とか近くのハンガーフォード家の土地に1/4エーカーほどの米を植え、1911年に作業を続けられるだけの種子を確保した。

1911/12年、ジョーはナヤで20平方フィートの土地に試作として5種類の米を蒔いたところ、この年は万事うまくいった。米は通常の小麦収穫方式を用いて収穫され、そのうちの3種類が際だって良かった。ジョーは最良のものを父にちなんでカヘイと名付けた。カヘイはオーストラリアの条件下で1エーカーあたり1トンの収穫をあげることができるとされた。日本で「高地」変種とされるシンキリとヒデリシラズが成功した他の2種であった。

「エージ」新聞は次のように報じた。

日本人によるビクトリア米の試作、
マレー川で1エーカーあたり20ポンド(£)の収穫をあげる

ナヤのマレー川流域で日本人農夫高須賀氏により栽培された試作米が昨日農業省に受理された。高須賀氏は過去4年間、25種類の米を用いて200エーカーの土地の一部で試作を行ない、カベイ(原文引用)とシンキリを含む3種が土地の灌漑を行なった場合、うまく育つということを証明した。高須賀氏が同省の主任担当官テンプル・スミスへ提出した報告によると1エーカーあたり1トンの収穫が可能で、市場価格は1トンにつき20ポンド(£)で、支出は人件費を含めて1エーカーあたり7ポンド(£)である。貸付地は粘土質の土壌で、日本で稲作に最適な土地と極めて近いとされている。スミス氏によるとマレー川下流域にこの種の土地が何千エーカーも広がっているとのことである。

米の収穫は小麦と同じ方法で行なわれるが、脱穀作業には特殊な機械が用いられ、この機械の価格は約25ポンド(£)である。ナヤのヨーロッパ人入植者の中には高須賀氏の成果を知って、稲作に着手しようとする人々もいる。この試みにより農業経営者は、1エーカーにつき現在の1ポンド(重量)10シリングから13ポンド(£)という収益の伸びを期待することができるとされている。スミス氏は稲作についてさらに検討する意向である。試作脱穀米は身がつまっていて見た目も良い。スミス氏はコモンウェルスの米の輸入は年間8万3千ポンド(£)に相当すると述べている。

「アーギュス」新聞は以下のように報じた。

テンプル・スミス氏は、「試作米は極めて高品質で、日本人農夫の成功により、稲作産業は将来大いに発展する見込みがある。近隣のヨーロッパ人農家の多くは、その成果に触発され稲作に着手する意向である。」と述べている。

この報道に引き続き、ビクトリア農業省に稲作に関する情報および高須賀氏の種子を求めて、問い合わせが寄せられた。同省はそれに対して以下の点を強調して返答した。「1エーカーの畔に1~1.5ハンドレットウェイト(cwt:112~168ポンド・重量)の種子を手で植える。一ケ所に3つ、4つずつ約12インチの間隔をおいて植えること。」

良い結果が期待された。ジョーは農業省にこれまでの失敗は不適当な品種を用いたことが原因であると伝えた。それでは何が「適切」な品種なのだろうか。ジョーは「高地」米を「低地」方式で、あるいは「低地」米を乾燥地方式で植えていたのだろうか。これらの問いに対する答えは明らかにされなかった。しかし、後年、ニユー・サウス・ウェールズ州の著名な品種改良業者、ウォルター・ポッゲンドーフへの書簡にビクトリア州農業省担当官は次のように述べている。

高須賀氏は試作において、肥料としてブラッド・アンド・ボーンおよび過燐酸塩(石灰)を使用し(分量は不明)、たくさんの水を与えたが、開花の時期はあまり延長されなかった。高須賀氏との通信を調査したところ、栽培方式は「低地」式ではなく、「高地」式が採用されていたようである。給水の詳細については明らかでないが、常時水浸しにしておくのでぱなく、定期的に灌漑が行なわれていたと思われる。

ジョーは明らかに降雨や土の水分に頼るのではなく、灌漑をしていた。このことは主任担当官テンプル・スミスによるジョーの1912年度の収穫に関する報告から窺える。

高須賀氏はこれらの品種を用いることにより、1エーカーあたり20cwt(2240ポンド・重量)の米が収穫され、価格は1トンにつき20ポンド(£)程見込めるとしている。籾殻は敷物や屋根ふき、さらに家畜の飼料に用いることもできる。米の栽培および灌漑にかかる費用は、耕作、収穫を含めて1エーカーあたり約7ポンド(£)である。

土地は粘土ローム質で、年に数か月間洪水にさらされるため、高須賀氏は目下商業規模での稲作を行なうことができない。現在の試作米の成長はとうもろこしなどの他の作物よりも優れている。

稲作に適する土地は500エーカーほどあるが、マレー川流域の何百エーカーもの土地同様、他の作物栽培には適さない。

テンプル・スミスが粘土ローム質の土地に言及し、3種類の有望な米は川岸の黒色沖積湿地帯ではなく、粘土質の土壌で栽培されたと述べていることは興味深い。おそらくジョーは粘土質地帯で保水率が高く、米が良く育つことに気付いたのであろう。

1911年までに他の二人のヨーロッパ人貸付地申請者は川の氾濫により計画を断念し、割り当てられた土地は王室領に返還された。1911年7月高須賀は長さ3マイルの堤防を彼の割当地と隣接する王室領に築くため、再度、政府に支援を要請した。しかし、政府は他の計画に基づき、高須賀家の周囲の土地に、入植地用の堤防を立てる準備をしていた。1912年5月、ジョーは土地省から埋立地計画について知らされ、この計画が完成するまでは、第47貸付地の永久貸与の件は考慮されないという連絡を受けた。高須賀は借地契約に記されていた、年間100ポンド(£)増加という成果をあげていなかったので、政府は堤防設立の援助も拒否した。彼は意気消沈した。

ティンティンダーで度重なる洪水の被害を受けたジョーは、1912年に収穫した貴重な種子を使わずに、ナヤでW.ホブソンおよびR.モールから借りた土地に別々に植えつけを行なった。この試作により得られた種子もさらに改良されているように思われた。

1913年、ジョーはティンティンダー中部のR.ベリーの区域に5エーカー分のカヘイ(タカスカと改名)および彼の故郷にちなんで名付けられたエヒメという品種を蒔いた。その結果、1袋175ポンド(重量)の米が12袋収穫され、割合にして1エーカー、約1トンであった。高須賀は5年の借地契約期間内に、劣悪な条件にも屈せず、政府の実質的な援助もない状況で、稲作の実行可能性を示した。しかし、それには家族の大きな犠牲が伴った。ショーは1913年、近くの農場で働くため、学校をやめなけれぱならなかった。10月、一家はスワン・ヒルに移り、ショーは妹のアイコの学費調達を援助するかたわら、夜、通信教育で勉強した。その年の終わりに、高須賀はビクトリア農業省に1906年以来54品種を試作し、さらに大規模な試作を行なうつもりであることを告げ、技術および財政援助を要請した。

過去8年間、私は稲作に多大な労力と費用を費やしました。そのため年毎に貧しくなっています。今年は大規模な稲作をする資金がないので、農業省からの援助が受けられましたら幸いです。

ジョーは最大の問題は(未完成の堤防の他に)米の開花期に起こったと報告した。日本では開花期は2週間だが、ナヤでは6週間も続き、最初の穂が実った後も、新しい穂が出てきた。農業省からのアドバイスは得られないものだろうか。もみがらの市場価格についての詳細を知らせてもらえないだろうか、と彼は考えた。農業省は問い合わせの受領を確認したにとどまった。なぜここまで非協力的なのだろう。

州政府の消極的な対応は、おそらく米産業の人件費および必要とされる水の量によるものと思われた。また、アメリカの米産業のオーストラリア進出も影響していたかもしれない。一例をあげれば、1912年11月、著名なアメリカの灌漑専門家であり、ビクトリア州河川・水質委員会委員長のエルウッド・ミードが、先頃訪れたアーカンソーやカリフォルニアで用いられている方式を使用したビクトリア州米産業の展望について報告した。ミードはアーカンソーにおける米産業は、1902年試験的に開始され、今やアメリカ合衆国最大であると述べた。彼は「深さ8インチ以下の寒冷でやせた牧草地の土壌」が米の栽培に最適であるとし、ゴールバーン渓谷にそのような土地が見られると強調した。アーカンソーの米農場は面積160エーカーから2000エーカーにおよび、それぞれ個別の堀抜き井戸から水を引くという方式を採用していた。米の種子は小麦用のドリルで植えられ、刈り取り機およびバインダーを用いて収穫され、通常の小麦用脱穀機で脱穀された。稲作は綿花やタバコ栽培よりも有益で、米農場の地価は4倍に増えた。ビクトリアの夏は米が成熟するには低温過ぎるという恐れもあったが、アーカンソーとビクトリアの気候は似ていた。アメリカ人はサクラメント渓谷についても同様だろうと考えていたが、稲作は「果物栽培やアルファルファの栽培に適さない固い粘土質の土地」で成功していた。ミードは州政府に対し、ゴールバーン渓谷計画を用いて平地での試作を行ない、アメリカから経験豊富な農夫を呼び寄せて指導にあたらせるよう要請した。

米の植えつけ、および収穫時に機械を用いるのはアメリカだけです。適切な土壌であれば(ゆるい土壌では水分がすぐになくなってしまうので、固い土地でなければなりません。)、水路からの水分だけで畑を潤すのに十分で、ビクトリア州の日光があとの仕事をしてくれるでしょう。

「エージ」新聞はミードのゴールバーン渓谷における稲作擁護を推薦して、以下のように報じた。

状況は稲作に着手しようとする農家にとって前途有望である。土壌は適切で水分の補給に必要な平地が広がっている。土地を得ることは可能で、さらに重要なことは、下層土が保湿性に優れているということである。大まかに言えば、稲が地上数インチになってから穂先が垂れ下がるまで、水田には深さ3インチから6インチの水分が必要である。

同紙はさらにアーカンソーからの数字を引用して、「高地」変種は日本の「低地」変種よりも確実に収穫高が少ないということを明らかにし、サクラメント渓谷からの栽培報告を公表した。

ミードの推薦に応じて、ビクトリア州農業省は合衆国植物産業省に連絡し、サクラメント渓谷における稲作の予備報告を入手した。この報告書はカリフォルニアの稲作を写真付きで、詳しく説明していた。「低地」変種、とりわけ日本米ワタリブネについても、通常の穀物用ドリルをもちいた種蒔き、排水可能な水平面上に広がる、水はけの悪い下層土を伴った固い粘土質の土壌での灌漑を用いた水分調節技術などの点で説明がなされていた。報告書は、米の栽培は多くの人々が考えるほどには危険を伴わず、特に「利用価値」がないと思われる土地に適していると述べた。「水分量が少なくてすむので、浅い土地の方が望ましい。」

アメリカの報告書で述べられていた方式、変種、環境は高須賀の試作状況とはかなり異なっていた。おそらく農業省の非協力的な対応はこの不一致も関連していたのだろう。土地省の第47貸付地を回収しようという決意も状況を左右したのかもしれない。

高須賀はひるまず試作を続け、1914年および15年に、スワン・ヒル灌漑地域の近くに2ケ所別々に植えつけを行なった。(第24)キャロル地区に30エーカー、(第36)J.ハノン地区に20エーカーであった。成長は上々に見えたが、ここで新たな問題が生じた。ティンティンダー西部では過度の水分により試作が妨げられていたのに対し、皮肉にもスワン・ヒルでは干魃に見舞われた。ビクトリア州河川・水質委員会では試作を終了するのに十分な水を高須賀に対して保証することができず、彼は配給された水を全て、種蒔きを終えた50エーカー中の10エーカーに使わざるを得なかった。残りのたんぼは無駄になってしまった。

ここでも収穫高は1エーカーにつき約12袋で、合計120袋だった。もしも試作が完全に行なわれていたのなら、およそ600袋、45トン以上の米が収穫されただろう。この米のサンプルはメルボルンの精選業者(おそらくブランニング専売公社)に届けられ、加工に最適とされた。しかし業者は米が定期的に届けられるかどうか知りたがった。誰も、高須賀自身さえも、保証はできなかった。不確定な土地の保有期間、未完成の堤防、川の氾濫状況、政府の消極的な態度、全てが彼にとって不利な条件であった。高須賀が定期的な供給を保証できたなら、南西オーストラリアにおける商業規模の稲作は10年早まったかもしれない。高須賀は農業省を通じて、1915年に予定されていたヤンコ試験農場での試作用に、スワン・ヒルで収穫した種子を種子業者およびニュー・サウス・ウェールズ州農業省に販売した。南オーストラリアで育成された米が商業販売されたのはこれが初めてのことで、劣悪な環境下での偉業と言える。

高須賀の成功により、稲作に対する一般の関心が高まり、農業省には以前に増して農家からの問い合わせが寄せられた。ビクトリア州在住のアメリカ人、C.H.スティーブンソンはスワン・ヒル灌漑地域での試作用に米の種子(明らかに日米変種)を求めて同省まで連絡した。それに対して農業省はサンフランシスコにおいて種子を入手すべく準備が進められると返答した。しかし、第一次世界大戦により海運航路が遮断されたためか、農業省は後にタカスカ種を試すようスティーブンソンに忠告した。スティーブンソンは試作を行なうという旨を告げたが、不幸にも高須賀は農業省に、販売できる米の種子は残っていないと知らせなくてはならず、さらに栽培できるよう支援を要請した。このときもよい返事は得られなかった。

しかし、戦時中の米価急落に伴い、政府の稲作に対する関心は相変らず高かった。高須賀の試作およびカリフォルニアの米産業は、多くのオーストラリア州政府によって調査された。一例を上げると、ニュー・サウス・ウェールズ州水資源保存委員会(WCIC)が稲作の件で、ビクトリア州農業省に連絡した。1915年8月24日、高須賀ジョーはニュー・サウス・ウェールズに届けてもらうよう同省に稲作に関する情報と種子米のサンプルを送った。その際、彼は次の説明を加えた。

米は小麦用の機械を用いて、広い土地で栽培することができます。唯一の相違点は米には灌漑が必要ということです。種子はドリルで蒔くことも散布することも可能です。面積が広い場合、収穫は刈り取り機およびバインダーで行ない、数日間乾燥させてから脱穀します。

1915年11月、ビクトリア州農業局長は以下のように報告している。

彼(高須賀)は優れた米のサンプルを製造し、最も多産の種子を示すことに成功しているが、まだビクトリア州における稲作が有益な産業であることを証明できていない。高須賀氏の試作は未完成だが、彼の努力により、ビクトリアおよびニュー・サウス・ウェールズ州の灌漑入植地での稲作の可能性に対する関心が高まった。これは考慮し、奨励するに価することである。

1915年、ビクトリア州のモンテギュー・チャーチル・ショー(時折「シャン」とも呼ぱれる)がタカスカ種を購入し、トンガラ近くのコユガ駅から3マイル離れた敷地に蒔いた。ビクトリア州農業省は注意して、動向を窺っていた。入植者にも通常の環境で「乾燥米」(公式にはこう呼ばれていた。)が栽培できるのだろうか。それとも、試験者だけにできることなのだろうか。ショーはダムを作り、灌漑水路から水を引いた。そのため畑は植えつけの前に潤された。1915年11月26日、彼は1エーカーにつき30ポンド(重量)ずつ、深さ1インチ、間隔は14インチをあけてタカスカ種を蒔いた。これは明らかに高須賀自身により指示されたものと思われる。ショーは1週問に一度水をまき、1エーカーあたり120ポンド(重量)の過燐酸塩(石灰)を使用した。彼は1エーカーにつき5エーカーフィート(1,238,000リットル)の水を利用した。これは十分な量だが、灌漑は行なわれていなかったようだ。灌漑は当時オーストラリアではまだ珍しかったので、もし行なわれていたら、確実にショーの報告に記されたはずである。米は順調に芽を出し、1粒の種子から30から40本の稲が生えた。病気にもかからず、2フィート6インチに伸び、非常に均質であった。しかし、熟し方はまばらで、一部の畑では穂先がからの稲もあった。6月になると刈り取り業者は収穫に精を出したが、収穫高は高須賀の半分強に過ぎなかった。ショーは1エーカーあたり7袋、精選して756ポンド(重量)に相当する米を収穫した。彼はタカスカ種はマレー川流域での低地栽培に適しているという結論に達した。
この地域の雨期は小麦には湿り気が多すぎるのであった。乾期には米の代わりに家畜飼料を栽培することができた。ショーは10月中旬の早い種蒔きを薦め、脱穀作業時の過度の水分に注意するよう指示した。彼は自信をもって翌年、60エーカーの米を植え、近隣の農家に1ポンド(重量)1シリングでタカスカ種を供給した。さらに彼は「自分の脱穀工場を設立し、藁や籾殻を飼料その他商業目的で利用する」計画だと述べて、1エーカーあたり最低5ポンド(£)の利益を見込んだ。しかし、ショーは「まだ最適な品種は見いだされておらず、現行のものよりも多くの収穫をあげている米の種子を用いることにより、さらに改良が期待できる。」と結論付けた。

ビクトリア州農業省は畑でタカスカ米の成育力を示したショーを誉めたたえた。「エージ」新聞は「成功すれば入植地に住む人々の問題解決につながる、新たな産業がチャーチル・ショーによってトンガラで開始された。3エーカーにおよぶ米の試作である。」と報じた。

しかし、それは実現しなかった。ショーは1916年に米の栽培面積を拡大したが、雑草にひどく妨げられ、1917年までに米の栽培を断念した。にも拘らず、ビクトリア州での米の試作はニュー・サウス・ウェールズ州よりもはるかに進んでいた。ニュー・サウス・ウェールズ州では、依然としてタカスカおよびその他の変種を用いた、ヤンコ試験農場での小規模栽培が行なわれていたが、当然のことながら入植者による栽培には至っていなかった。

高須賀ジョーの稲作はこの間、おおいに注目を集めた。彼は最初の100ポンド(重量)の種子を売って得られた収益を、メルボルン市長のベルギー救援基金に寄付した。彼自身および家族の苦労を考えれば驚嘆に価するこの行為は、勇敢さゆえにメルボルンの新聞や雑誌に高く評価された。しかし、このことにより、ビクトリア州土地省のティンティンダー貸付地に対する注意もまた喚起され、土地保有権をめぐるジョーと同省の長期戦が続いた。この間、ちょうど米の試作が軌道に乗ろうとしているときであったが、実質上作業は停止された。土地省は今や、ジョーの貸付地を戦後の復興計画の一部として入植地にしようと決意し、検査官をティンティンダーへ派遣した。検査官は貸付地での堤防設立費用は700ないし800ポンド(£)と見積り、高須賀にティンティンダー西部へ戻るよりもスワン・ヒルで試作を継続するよう薦めた。ティンティンダー西部へ戻れば、給水設備、水路の開設、柵作り、開墾、堤防設立が必要となり、その追加資金によって、彼の財政状況は非常に悪化すると説得を試みた。ジョーはスワン・ヒルでさらに米を栽培し、資金を集め、経済的に安定した状況で貸付地に戻るべきだと薦められた。検査官はティンティンダーでは、土地は荒廃し、さくは劣悪、シェルターも原始的で「洪水により、2、3マイルの土手もほぼ全滅状態にある」と報告した。家屋はわずか10ポンド(£)と査定された。全体として、報告書は「見込める改良はきわめて無価値なものである」と結論付けた。

ジョーはそれでも耳をかさず、家族を連れてティンティンダーの原始的な杭と平板で作られた小屋、洪水で破壊された堤防へ戻ってきた。彼はスワン・ヒルで取れた米を売って得た利益を用いて、マレー松を材料に、150ポンド(£)投資して、32フィート×28フィートの4部屋つきの家を立て(修理し)た。高須賀マリオによると、この小屋はもとはティンティンダー西部在住のサイズ氏のもので、高須賀貸付地に移されたものらしい。古代アボリジニの貝塚上にあるこの家は、洪水の被害を受ける心配がなく、ベランダ付きでワンダーリック・スタイル(模様付きすず)の屋根をしていた。高須賀はさらに80ポンド(£)を築堤に費やした。この一連の改良作業(まだ必要とされた500ポンド(£)を下回っていた)を見て、土地省役人は次のように報告した。

開墾にあまり費用のかからない土地を選ぶよう高須賀氏を説得しようと試みたが、彼は現地点で作業を継続するつもりのように見受けられる。現在の彼の出費状況を考慮すれば、土地省は土地所有権を授与することにより、彼を援助すべきと思われる。同氏によると、所有権が与えられれば、事態を処理できるとのことだが、私にはいささか自信過剰のように思われる。しかし、それは彼自身の問題であって、彼が適切な米の変種を製造したのは事実である。もし、土地所有権を与えることにより、彼が計画を首尾よく遂行できるのであれば、そのように便宜を計るべきだ。高須賀氏は多くの困難にも屈せず、稲作を成功させる努カを怠らなかったのだから、可能なか
ぎり援助を与えられてしかるべきである。

1915年11月5日、高須賀ジョーは、ティンティンダー西部第47貸付地の永久借地権を与えられた。彼はさらに自由保有権を求めた。洪水は相変らず土地を襲い、川の増水で1915年の植えつけは中止された。もし、その年ジョーが収穫をあげられたなら、1914/15年の成功は確実になされただろう。1916年さらに1917年には、土地の近くを流れる川が乾かず、築堤作業は1918年まで延期された。洪水の可能性が非常に高かったので、ジョーは1919年まで(1915年以来初めて)植えつけをすることができなかった。しかも、衰弱した種子を用いて5エーカー分植えつけたにすぎなかった。種子の衰えを補うため、ジョーは通常の5、6倍の種を蒔き、1920年に大規模な植えつけができるよう十分な種子が取れることを望んだ。しかし、成長は思わしくなく、1919/20年は不作だった。高須賀は、その時もなお借地契約を担保にして、必要な基礎工事を完成させるだけの資金調達ができなかった。

土地省の副長官A.A.ペヴリルは入植地の割り当てを増大した。この頑固な日本人は誰なんだ。ペヴリルは何としても高須賀を追い出そうという決意だった。土地省は(政府の援助が得られず、そうせざるを得なかったことを自分達にとって都合がいいように見過ごして)高須賀がティンティンダー西部で毎年、米の植えつけを行なっていないと指摘した。1919年10月、同省はジョーが永久借地契約の栽培条件を満たしていないことを理由に、自由保有権につながる選択購入借地権の申請が却下されたことを通達した。さらにコモンウェルス移民局に対して、高須賀の試作は「オーストラリア滞在延長を正当化するに足りる重要性を持たない。」と述べた。しかし、移民局は独自の調査を行ない、高須賀は「勤勉で、尊敬すべき人物」と広く認められていることを地元讐察から知らされていた。ビクトリア州農業省も移民局に対して「さらに調査する必要はない。」と忠告していた。コモンウェルス移民局は彼を国外迫放しなかった。

高須賀は優れた政治手腕を発揮して、官僚や政治家に応戦した。1920年3月、彼は弁護士を通じて、1906年以降の米の試作を詳述した手紙を土地大臣に送った。大臣はこの件を省に委任し、同省は高須賀の手紙をスワン・ヒル王室領土管理者に転送した。そして次の報告がなされた。

彼は勤勉な入物だが、秩序に欠けている。堤防が築かれなければ、米に限らず他の作物栽培もできないだろう。もし、それが達成されたなら、借地権獲得に何ら問題はないと思われる。

副長A.A.ペヴェリルはジョーの大胆さに憤慨した。高須賀を滞在させることはできない。ジョーは地元代議士に接触し、彼を通じて、大臣に再度考慮してもらうよう頼んだ。答えは「No!」だった。その時の土地省の言い分は、高須賀の試作が主として他人の土地で行なわれていたため、第47貸付地は試作継続に不必要であるというものだった。まさにその通りであったが、それはジョーが堤防を完成できないにも拘らず、政府も金融業者も援助しようとしないからにほかならなかった。8月、自分達の議論を有利に展開すべく、土地省(農業省ではなく)は、高須賀に米の種子を求めた。彼は要求に応じることができなかった。追い討ちを掛けるようにマレー川がまたしても、高須賀の土地を襲い、見事な70エーカーのからす麦を台なしにした。落胆したものの、絶望はせずにジョーは船をこいで、子供達を学校へ送った。家族は意気消沈していた。しかし、アイコがその年、スワン・ヒル小学校の首席となり、皆はその知らせで元気づけられた。

1921年、またしても第47貸付地に洪水が押し寄せた。4月、ジョーは(おそらく課税省にあてて)「書類に記入し、送付するべき所得はありません。」と手紙を書いた。彼は再度、堤防を立てるため、1000ポンド(£)の銀行ローンを申請した。堤防は長さ3マイル、完成には6か月かかり、2組の馬が必要だとジョーは見込んだが、このときも借地契約を担保に、財源を確保することができなかった。問い合わせを寄せる人々に供給できる米の種子もなかった。6月、ジョーは水供給省次官の紹介で、土地大臣に面会した。彼らはジョーの粘り強さと献身さに感動した。彼は次のように述べた。

ほぼ毎年、家は水浸しになり、全ての家畜を移動させなければなりません。洪水時の2、3か月間(今でもそうですが)半マイル以上船をこいで子供達を学校まで送り迎えしなければなりません。

土地大臣はこの件を内閣に持ちかけたため、政府顧間弁護士が、高須賀の貸付地退去という副長官ペヴェリルの要求の法的基盤を調査するよう指示された。弁護士の忠告は、この件は全て行政配慮によるもので、選択購入借地権発行を拒否する法的理由はないというものであった。

高須賀はメルボルンのコモンウェルス移民局を訪ねて、滞在延長を求めた。移民局から相談を受けたペヴェリルは憤概して次のように述べた。

高須賀は非常に意固地な人物で、ある意味で省にとって厄介ものと言える。彼は数回におよび利権を求めて個人的な申請を行なったが、全て拒否されている。にも拘らず、政治家を渡り歩き、彼らの同情をかい、その結果としてほとんどいつも問題は白紙の状態に戻される。高須賀の申請は州政府に先立つものであったが、現在選挙を間近に控えているため、当分何の処置も取られないだろう。

シッソンはこの間も絶えず高須賀が米の栽培を行ない、1921年、22年には満足できる収穫高をあげたと考えているが、詳細は残されていない。

高須賀はついに土地省との戦いに勝利をおさめた。1921年9月、彼は選択購入借地権およびオーストラリア残留許可を与えられた。コモンウェルス自治・領土省は、ビクトリア州で稲作を続けているのが彼一人であることに気づき、彼の申請を好意的に処理したのだった。高須賀一家は滞在を許可されたものの、毎年申請を繰り返さなければならなかった(1924年この要求は廃止された)。1922年10月、高須賀ジョーはティンティンダー西部第47貸付地の自由保有権を確保した。これで自信をもって稲作を続けられると思われた。

しかし、マリオの記憶やその他の報告からも明らかなように、高須賀家の財政状態は今やどん底であった。1923年8月、ジョーはビクトリア州農業省に対して、息子ショーを「稲作の専門家」として奉仕させる代わりに、ティンティンダーでの米の試作をさらに援助してもらおうと試みた。「高須賀が稲作に着手できない」のに気づき、同省は該当職員不在と説明してその申し出を断わった。1924年1月、ジョーは自治・領土大臣、上院譲員ピアスに手紙を書き、ショーを政府に奉仕させたいと申し出た。彼は大臣に「様々な栽培方式を用いた」試作のために、日本から50変種以上もの米の種子を輸入したが、洪水に対する防御策の欠如が唯一の原因で、マレー川流域での稲作の可能性が示せずにいるということを伝えた。ジョーは米は「オーストラリアで最も有益な作物」で、2ないし4エーカーフィートの水で、タカスカ米は1エーカーあたり、1、2トンの収穫があげられると述べた。ショーは1906年以降の父の稲作経験を記録し、写真を添えて送った。ショーがMIA(マランビジ灌漑地域)の舗装されていない道を「ダグラス」オートバイに乗ってかけ巡ったのはおそらくこの時期だったろうと思われる。この旅行の詳細は見つかっていないが、ショーはニュー・サウス・ウェールズ州農業省もしく
は水資源保存委員会に雇われ、ヤンコで行なわれている米の試作にあたらせてもらうことを望んでいたようである。リートン小学校の外にいるショーの写真が残っている。おそらく役人や興味を持った入植者達が、不屈の父が1906年から続けている稲作について、ショーが話すのを聞きに集まったのだろう。

1924年2月、「エージ」新聞は上院議員ピアスをインタビューして、「稲作、オーストラリアでの成功期待される、日本人農夫による試作」と題する報告を発表した。大臣は次のように語った。

(高須賀は)灌漑することにより、白人労働者が首尾よく、商業規模で行なえる種子と栽培方法を見いだした。彼によるとそのシステムを用いれば最少の水分、すなわち、年間2ないし4エーカーフィートの水で済むという。米は灌漑農家が通常使用する器具で栽培することができ、日本で行なわれているように鍬を使って手作業する必要はない。高須賀氏の意見では、オーストラリアで大規模な米の栽培を成功させる際、唯一の困難は知識不足とのことである。

ピアスは高須賀の手紙を貿易委員会に送り、関税大臣に「オーストラリアで新たな産業が芽を出す見込みがありそうなので、実質的な稲作のデモンストレーション」を促進した。

確かに稲作に対する関心は回復しつつあった。1924年3月、ナヤ新入植者連盟から、政府による稲作についての詳細発行を求めて、農業省に手紙が送られた。フランス領事とクイーンズランド政府も情報を請求してきた。輸入・精選業者のロバート・ハーパー&カンパニーはビクトリア州で育成された米の精選を支援すると申し出た。 しかし、この時までに、カリフォルニアのジャポニカ種を用いた試作が成功したという知らせがビクトリア州に届いていた。これは、オースティン・シェパードがリートンで、ニュー・サウス・ウェールズ州農業省および水資源保存委員会のために行なったものである。上院議員ピアスの指示で貿易委員会がビクトリア州農業
省に連絡した際、委員会はきわめて懐疑的であった。

ビクトリア州における稲作の可能性は、長年検討されていて、これまでにも多くの試作が行なわれている。中でも熱心なのばスワン・ヒル近くのティンティンダー在住の高須賀ジョー氏によるもので、当地の気侯および土地条件のもとで満足のいく収穫高が得られる品種を製造したとのことである。

ビクトリア州農業省はリートンでの成功をゴールバーン渓谷で再現したいと願った。実際、農業省局長(キャメロン博士)はすでにアメリカで、米産業についての研究を行ない、省の役人達と連絡をとっていた。博士の研究は以下の事実を明らかにした。

蒔かれた直後から収穫のため畑が排水されるまで、水に浸しておいた米、あるいは水中に蒔かれ、その後浸されたままの米は、それ以前に行なわれた灌漑米に比ベ、いくつかの利点がある(原文引用)。最大の利点は従来の方法よりも7日から10日ほど早く作物が実るということである。この方式を用いると、米は良種のものが得られ、雑草の被害も少ないように思われる。ビクトリア州で実施された方式は、ドリルを用いて種を蒔くか散布するかし、畑に常時水を引く前に軽く灌漑するというものであった。カリフォルニアでは、この方式を用いても水草や厄介な雑草を駆除することができない。

その後、高須賀と農業省との通信が一時とだえた。高須賀はティンティンダー西部の土地まで道をつなぐことに(空しい努力ながら)専念していたようだ(依然として洪水時にはガンバウアー水路を通って船での行き来がなされていた)。ビクトリア州農業省は、稲作に関する情報を求める農夫達をニュー・サウス・ウェールズ州農業省へ照会させるか、その省からの情報を提供するかして応対した。非公式の政府レベルでの同意が成立し、稲作は、ニュー・サウス・ウェールズ州へと限定された。その間に、初期の米産業は確立された。
(これは1930年のインターステート灌漑当局会議で確認された。)

最終攻撃として、1927年9月、高須賀は再度ビクトリア州農業省に手紙を書き、タカスカ種は灌漑をしなくても、1月と2月の月間降雨量が3インチ、平均気温が華氏80度を超える土地ならば育成できると主張した。そのような土地はビクトリア州にはなかった。ジョーは何を言っていたのだろうか。彼はタカスカ種が、ビクトリア州で気侯の適切な季節、あるいは雨の少ない時に灌漑を行なうことにより比較的よく育った環境順化された「高地」米で、本来、降雨量の多い亜熱帯地域に向いた変種だと認めていたのだろうか。文献にはこの問いに対する答えが記されていない。農業省はそのような環境条件はビクトリア州には存在しないので、ニュー・サウス・ウェールズかクイーンズランドでの試作を行なうべきだと返答した。ビクトリア州農業省がもはや高須賀の試作に関心を持たないということは明白だった。

翌月、弁護士エドガー・デイビースが土地省長官に高須賀ジョーが第47貸付地をヴィニフェラのジョゼフ・ディキンソンに売却したことを知らせた。ディキンソンは隣接する550エーカーの王室領土も落札していた。高須賀一家はナヤに移り、ぶどう栽培を始めた。

高須賀にとっては、資金調連、洪水、土地保有権、政府の関心の薄れなどを心配し、気持ちが動揺する時期であった。調査官であり著作家でもあるG.W.ブロートンがマレーの土手でジョーに出会ったのは、このときだったようだ。ブロートンは克明に強靱な米のパイオニアのイメージを描写している。

丸太に座り、魚取りの網を繕っている年老いた小柄な男を見たとき、最初中国人かと思った。しかし、近づいてみたら日本人だったので驚いた。男は「湯沸かし」を火にかけたが、私は通り過ぎ、なぜ彼がそこにいたのか不思議に思いながら、別れの挨拶をした。彼は立ち上がり、丁寧にお辞儀をしたが、ゴムの木の生えるその場にそぐわないように思われた。彼は微笑んで、「私は高須賀といいます。米の栽培をしています。あなたは?」と私の置いた経緯儀を指してたずねた。彼の発音の仕方は「Ta-Kassaka」のように聞こえ、最後の3音節が強調されていた。

紅茶を飲みながら私が昼食をとる間、彼は何も口にしなかった。彼は沖積土と腐敗した枯れ草で何世紀もかかって形成された肥沃な、黒色の泥炭質の土壌に広がる小さな畑で数年に渡り、種々の米を試作していると言った。農林業省からの役人が度々彼の所にやって来たという。しかし、ナヤの入植者達は、稲作を遠い日本から来た年寄り変人のざれごと扱った。彼は日本であまり会話に慣れていない日本人の教師から習ったようなおおげさで古くさい英語を話した。礼儀正しく、貴族的とも思える彼の物腰に、私は興味を持った。日本で何をしていたのか、また、なぜ淋しいマレー川の岸辺で世捨て人のように暮らしていたのかは誰も知らないようだったが、後に彼が高貴な家の出らしいと聞いたとき、私は驚かなかった。

作業が進むに連れ、私たちはときどき高須賀家の小屋の前を通り過ぎ、立ち話しをしたが、彼は、私たちの仕事が彼を土地から追い出す建設作業の前段階と思ったらしく、最初に出会ったときよりも、段々ロ数が少なくなった。川沿いのその地区を去って一年強経った頃、高須賀の小さな畑で取れた早苗がヤンコで素晴らしい成長を遂げていると聞いて非常に興味深く思った。実際、その苗は後にMIA(マランビジ灌漑地域)で発展した偉大な稲作産業の発端だという。

ブロートンはタカスカ種がニュー・サウス・ウェールズ州における米産業の基礎を築いたというが、それは考え違いで、カリフォルニア産のジャポニカ変種、カロロ、ワタリブネ、コルサに負うところである。しかし、断固とした日本人の元代議士の例に触発され、ニュー・サウス・ウェールズ州における稲作への関心が高まり、一連の試作が行なわれ、ついに南東オーストラリアにおける商業的稲作の可能性が証明されたということは、ほぽ疑いのない事実である。

シッソンは次のように結論を下している。

彼はビクトリア州においては、稲作を経済的に有益な事業とすることはできなかったが、2ないし4エーカーフィートの水とオーストラリア小麦農家の方式(日本で行なわれているように、苗を手で植えつけるのではなしに、最終的に刈り取られる位置にドリルで種を蒔くという方式)を用いることで、1エーカーあたり1トン以上の収穫が得られるということの証明に成功した。マレー川で過ごした期間に、高須賀はオーストラリアの環境条件に適した栽培方法を開発したのである。

さてここで、ジョーとイチコの血を引き継ぐ息子のマリオについて触れることにする。マリオ(「マレー」としてその名は知られている)は、両親がオーストラリアで稲作の開拓に多大なる貢献をしてきたこと、また、それに対する周囲の状況に強く心を動かされた。
先ほども触れたようにマリオは、1910年に生まれた。そのためこれから述べる記録は、彼が青年期になりかけた若き日の頃の話しである。

“私の母は並外れた人だった。育ちのためか彼女は料理の仕方を知らなかった。しかし、野天の竃で料理するのを人から習い、彼女は西洋料理と日本料理の両方が作れるようになった。ぶち切り肉でもステーキ肉でも何でも料理したし、私たちに日本食も食べさせてくれた。そう、和洋折衷の料理だった。薪の竃やそういったもので料理しなければならなかったからね。家では70ポンド(重量)の袋いっぱいの米を買った。私たちが家の米を使っていたかどうかは憶えていない。何故なら、もしそうなら米は脱穀されて奇麗なものでなければならないわけだが、家で私たちがそれをやったかどうか憶えていないから。私たち子供たちは、箸の使い方を習わなかった。私たちはいつもナイフとフォークを使った。いつもタンクに溜められた水だけで、流れ出る水はなかった。そして母はまたこれらのすべてを学んだ。馬の扱い方や野菜の作り方さえ学んだ。彼女は本当に私達子供達の面倒をよくみてくれた。彼女は珍しいこともできた。3つのボールを片手にのせて手品をするんだ。私は憶えているよ。私には決してできなかったけどね。

“ハウスは堆肥の上に建てられていた。私たちは「ブラックフェラの竃」って呼んでいた。3棟のハウスがあった。2つは家の所で、もう1つはクラウンランドにあった。母は橋の近くにあったそのうちの1つに、1年間野菜を育てていた。私たちは1度頭蓋骨を掘り出したことがあった。

“父は典型的な日本の父親だった。子育てのほとんどは母に任せきりだった。でも決して私たちを叩いたり、そういったことをしたことはなかった。そして私たちは父を大いに尊敬していた。彼は社交的な人だった。いつも誰かを家に連れてきた。1度彼はシドニーのスズキという男の人を連れてきたことがあった。1920年頃のことだったと思う。スズキ氏は学校が休みの間の数週間私たちと一緒に暮らした。日本人たることについて彼らはよく話をしていた。彼は私たちのためにサマーハウスを建てることを決め、私たちは山に登り何本かの丸太を荷車で運び、何枚かの麻布も集めた。私たちにとって彼は時折鬼の様な人だった。私達に素敵なサマーハウスを建ててくれるつもりだった。ところが彼はそれ以上何もしようとはしなかった。1927年私たちがそこを去る時も、それらの丸太はただ突き刺されたままだった。

“父も母も日本の歌を唄った。彼らは何かの催し物や、就任式やそういった特別な何かがあると、よく歌詞と曲を自分達で作ったものだった。それは彼らの躾けの一貫だったのかも知れない。ショーはとても素敵なテノールの声の持ち主だった。彼はよく地区のコンサートで唄った。私が思うには、彼の声は母譲りのものだったと思う。彼女は始めの頃私たちが持っていた日本の楽器を演秦した。古い日本の音楽を聞いて憶えたのだ。何という楽器だったか分からないけどね。1つは幅が15インチで深さが3インチほどで4、8本の弦のある丸い太鼓だった。もう1つは、たった4本しか弦のない細長い楽器だった。それで父と母は一緒に日本語で歌を唄っていた。

“私の父が米作りに興味があったのは私も知っていた。家の周りに米作りの試作があったよ。1920年か1921年頃父は、7馬力程ある「マーシャル」という蒸気エンジンを購入した。1878年に作られたものだった。彼はそれを設置するためにエンジニアを一人雇った。そしてショーも手伝って彼らはこのエンジンを設置したのさ。そのエンジニアはスケリーという名の男だった。彼がそのエンジンを作動させたのさ。父とショーは10インチのロバートソン遠心ポンプとともにそれを操作した。当時のマレー川付近の地域では、まぐさの切断やポンプなどといった事のために、ほとんどの機械が蒸気エンジンを備えていた。これと組み合わせて水を組み上げも行なわれていた。多分それを操作するためには免許が必要だったのかも知れない。でもショーは持っていなかった。私でさえその操作の仕方を学べたくらいだ。ショーが木を集めにどこかへ行っている間、私がエンジンを見ていたものだ。

“父とショーは堤を作って土地の区分けをした(でもそれが限られた区域だったか、どれくらいの長さだったかは、私には全く分からない)。彼は板と「松」(松の木)、父の故郷の名前をとって「愛媛」そしておとなしく年老いた「ロフティー」という3頭の馬で土作りをした。板は約長さ10フィート、厚みが8インチかもしくはもう少し厚めのもので真ん中の板には木製の取っ手が付いた。土の量を調整するために取っ手は付けられており、その取っ手は押し下げると動かすことができた。低い所に行くとハンドルは軽くなり全部の穴が埋められていくものだった。まだ子供だった私はその板の上に立ち、そのうるさい音を小さくするのを助けたのを憶えている。

“父は耕作するのに決して人は使わなかった。彼はあらゆる仕事をもしくは仕事のほとんどをショーと共にこなしていったようだった。それはよく耕された土だった。古代から洪水の氾濫物などが数百万年もの間そこに堆積されてできたものだった。

“1920年代の初め頃、父は鍬を14台ほど購入した。もちろん中古ではあったけどね。多分「マッシー・ハリソン」だったと思う。彼らはそれを使って麦を蒔いた。多分米も蒔いたと思う。それは当時農民が小麦作りに使用していた方法と同じ方法で行なわれた。刈り取りには機械とバインダーが使われた。でも確かではないけどね。彼がどのように、また、どれくらい水をやったのか、そして、その水は塞き止められていたのかどうか等、詳しいことは私には分からない。

“父が試験的に米作りをしていたのは知っている。彼は家の周囲に灯油の空き缶をずらりと並ベ、その中に米作りのサンプルを育てていた。それらは家の周囲のスペースに沿って1つずつ並べられていた。私はよくそれらがねずみに食べられていないかどうかチェックしたものだった。それらは試験的に育てられた植物だった。そして2、3フィートの高さまで育った約12個の缶があった。それらが全て同じ種類の物だったかどうかは私は知らない。

“1920年代ショーは、時折ヤンコ灌漑用地を見に行った。それは確かだが、それが何年で彼が何をしに行ったのかは分からないけどね。でも彼は自分のバイクで行ったような気がする。彼は「ダグラス」を持っていたから。

“毎年間違いなく雪解け時期の10月か11月頃に川の水かさは増した。それは時折私たちの財産を全部飲み込んでしまうほどすごいものだった。1920年頃には、私たちは住む家さえも引越しなければならないほどだった。堤防はすっかり壊れ、川には私たちの所有した土地に直接川の水が入り込んでしまう程の大きな段差ができ、南側の丘陵部にあった土地の入口には大きな穴ができてしまった。ある年(多分1921年)父は、私たちを学校(ティンティンダー・ウエスト・ステート・スクール)の外まで船を漕いで連れださなければならなかった。彼はまず始めに小形船を漕ぎだし、それから機械類を乗せて持ち出した。私たちは水が引くまでフレッド・ベイカーの家に滞在した。

“ニュー・サウス・ウェールズ州側は低いので、氾濫した水は数マイル流れて行った。そこには多くの水鳥達が住んでいた。白鳥やアジサシ、鶴、サンカノゴイ等いっぱい。ビクトリア州側の地域では、近頃では「ヴィニフェラ国有林」として知られているらしいが、そこも毎年洪水に見舞われた。そこは鳥にとっては天国のような所だった。鵜の巣になっていた大きなヤシの木も2本ほどあった。父が建築した西の堤防「ウェストバンク」、今はそう呼ばれているらしいが、それは大きな洪水を除いては、ほとんどの洪水から私たちの財産を守ってくれた。

“チャーリー・ベイトマンのような旅芸人が、沼沢のほとりにあるキャンプに毎年やってきた。学校から帰る途中私は彼と話しをしたことがある。彼はよく平底船の底に横たわり、先込め銃の的先に(獲物が)見えてくるまで静かに手でハンドルを漕ぐのだった。始めの頃は「ゴム収集係」が樹皮に切り込みを入れてジャムの瓶にゴムを集め、そして木こりは蒸気船の燃料に使う木材を集めて回ったらしい。

“ウールで一杯になった蒸気船が幾つか港には見られたよ。オスカーペベンシーやモンゴ、無敵艦隊チャールズFハント、旅客蒸気船のエレンやマリオン等などの姉妹船があった。私が9つか10歳の頃、1度釣り船のオーナーに乗せてもらったことがある。時折船は洪水で進路を失ったり、水が引いた後のゴミの山で動けなくなったりした。

“ある年、1922年から1925年に掛けてのどれかの年だったと思う。父はマレーコット(鱈の一種)を売り歩いていた。ある年30ポンド(重量)もあるようなのを常に捕まえることができる、かなりいい釣場を見つけたんだ。父の収入は増えていったよ。本当に。その年はいつもの年と違っていた。大きな魚が一杯だった。彼はナヤ西駅に魚を持って行き、荷車に積み込み鉄道で輪送した。バスケットは保冷のためにユーカリの葉と一緒に一列に並べられていた。1週間に1回か2週間に1回、父はバスケットを1籠送った。でも決して彼はそれで財を成そうと思っていたわけではなかった。その1年はそれで金儲けしたけどね。もちろんこれは完壁に違法だったから。

“乾燥した年には、川は連続した水溜まりの様になった。そして秋も深まった頃になると、時折大きなコッド(鱈の一租)がその中で跳びはねていた。そして始めの頃は、1本の紐や、手製の網に一切れの肉を仕掛けておくと、’白い魔女’と呼ばれたマレー川イセエビが夕方に獲れたものだった。1924年から25年の頃、ちょうど家の下に、水かさの少ない川が流れていた。そのわずかな流れの中の小さな岩棚を気を付けて渡るとニューサウスウェールズ州側に出ることができた。

“1926年か27年には、水門が設置されマレー川の水量は調節されるようになり、洪水の心配はなくなった。もし、父があと5年間あの地に留まっていれぱ、億万長者にはならないにしても、洪水にあって苦労することなどはなかったわけだ。

1927年までに「米工場」の先駆けの様な物がニューサウスウェールズのMIAで始められた。まさに事実上の米の一大事変がそこで発生したのだった。それにも拘らず、ニューサウスウェールズ州農業省は、土壌と灌漑用地に対する長期に及ぶ洪水のもたらす悪影響について心配していた。多分このために、タカスカ「乾燥米」は州北部のグラフトンやマーウイランバ、ターリーなどの実験農家などに配られた。遥か遠い北部海岸のユンガラで農家を営むコックス氏は、1927/28年に掛けてのシーズンにその実験を行なった。その収穫ノートによると、それは明らかに高須賀によって書かれたものだったが、コックスは未開墾の土地の耕し方や、8インチづつ離して穴をあけて2列に種を蒔き、その列の間は除草剤が上手く染み込んで効果をきたしたり、馬が通れるように2~3インチ程空けるという方法などを教えられた。石灰肥料は、1エーカーにつき2ハンドレットウェイト(cwt:112ポンド・重量)ずつ必要で、2ケ月後に再び堆肥するということだった。

コックスは、10月18日に植えつけを行なった(それは高須賀が薦めた方法よりも少し列幅を広めにしたものだった)。1928年3月5日に刈り取りは行なわれたが、しっかり育ったものは何もなく、収穫の時期には雑草と湿気で米は全滅だった。殻物は小屋の隅に保存されていたが、ねずみが侵入し収穫物は物の見事に食い尽くされてしまった。ターリーでは、J.デイビスとD.レヴィックの二人がタカスカ種の米作りを試みた。しかしその試みは「完璧なる失敗」と記録されている。グラフトンにおけるタカスカ米は、4フィートの背丈まで成長したが、収穫は乏しいものだった。それでも1エーカーにつき生産量は、13ブッシェルで10ポンド(重量)と記録された。政府は継続するには不十分な結果であると結論づけた。タカスカ米の試験は、1928年以降はほとんどと言われるくらい中断された。

高須賀一家は、ベンディゴの近くのハントリーにトマト栽培のため引越しをする1934年までナヤで過ごした。別の時期にジョーは竹の子やピーナッツ、綿等の栽培を試みている。ジョーは69歳。ナヤで生活していた時、彼等一家はかつてこの地において前例のない追放を命ぜられた。しかし、彼らは周囲の人々から非常に尊敬され、とても注目を浴びていたのだった。

1939年7月愛しい義母の死を知り、ジョーはその葬式に参列するために日本に帰国した。これがイチコと3人の子供達にとって最後の別れとなるのだった。1940年2月15日高須賀は、松山で心臓発作のため永遠の眠りについたのである。彼は生涯を通して決して医者の面倒になったことはなかった。死を迎えた時ジョーは、いかにも彼らしく1つの「計画」を今にも実行し始めようとしていた。それはまさに神戸で、オーストラリア・バーター総合商社がジョーに日豪間を行き来するのを公に許可し、それと共に輪出入業を始める時であったのだ。彼はローマ字で日本語を翻訳する学生を養成する通信教育を計画していた。また、高須賀は色々な美術品を売り歩いたり、反中国運動を援助するための日本戦争証文(約165ポンド・£)に投資したりしていた。ジョーはビクトリアでの完壁なる米作り武勇伝を利用して、家族の財産物を売り歩いたり、抵当に入れたりすることは決してなかった。もし彼がそういった事をしていたのなら、結果は違ったものになっていただろう。ジョーが、彼の姉(1933年没)や母に敬意を表して思い止まったであろう事は疑う余地もない。

高須賀家の子供達は、それぞれオーストラリアの会社事業や職業上において高名を成し遂げていった。高須賀ショーは、彼がまだ20代の頃に地域社会事業に深く熱中し、地方禁酒友好会「禁酒家レカブ組合協会派結社」の秘書兼出納官となった。1934年彼は基金引き上げ活動の承認を得て、スワンヒル病院の総長に選ばれた。ショーは、1938年以降ビクトリア州フォスタービルにて、彼の兄弟と共にトマト栽培を成功させた。第二次世界対戦が勃発すると、ショーは義勇防衛軍に入隊した。しかし、日本が1941年の12月に戦争参加を決定したと同時に、彼は抑留されてしまった。しかし、多くの人々からの激しい反対の声により、ショーは6ケ月で開放された。彼はトマト栽培に再帰し、その後ハントリー地区の地方議員を務め(1964~70)、1年間行政区代表までも務めた。ショーはまた、アングリカン教会の活動にも積極的に参加し、熱心にその地区の花々や自然保護運動に専念した。彼は1972年メルボルンで没しており、ビクトリア州のスプリングヴェールに葬られている。

学問的才能に恵まれた高須賀アイコは、教師としての養成を受け、スワンヒル地区の様々な学校で教鞭をとった。1933年、彼女は教師としての職を去り、コーンウォール人の移民である男と結婚をし、4人の子供に恵まれた。家族がどんどん大きくなっていった間、アイコはメソジスト教女性団体で秘書として務め、母親クラブや少女協会での活発なメンバーの1人だった。晩年アイコは、スワンヒル主婦協会のレギュラーラジオ番組に取り組みながら、パートタイムとして教師に復帰した。アイコは1970年スワン・ヒルにて没している。

マリオは、2度志願兵として服役した後、1940年6月にAIFに就職した。彼は中東、クレタそしてニューギニアで服した。1942年にマリオは、パレスチナにおける列車事故で危険を伴った救助活動に参加し、その貢献を称賛され軍曹に昇格した。

高須賀イチコは、1956年8月にビクトリア州のベンディゴにて死亡した。彼女はビクトリア州グーノングに葬られている。ショーに捧げられたグーノングにある、聖ジョージ教会のステンドグラスを見ると、「調和の中で暮らすことが、我々にとって如何に素晴らしく楽しいものであるか、しかと考えよ」(旧約聖書13)と記されている。

ジョーとショーがそれほどまでに一生懸命働いてきたその土地と、「ジャップバンク」の上を通る高須賀ロード沿いにあるヴィニフェラ国有林の南の端に記念碑が建てられ、数種類のタカスカ米がメルボルン博物館に、そしてイチコの日記やその他一族に関する記録が、スワンヒル開拓者博物館に保存されている。オーストラリアの南東部で米の商業的栽培に初の成功をもたらした、高須賀一家の偉大なる開拓者精神もまた遺書として残されている。

参考資料
多くの参考資料を提供してくださいましたD.C.S.Sissons社に、多大なる感謝を表します。
D.C.S.Sissons 「選択者とその家族」ヘミスフェアーにて、1980年11月/12月
D.C.S.Sissons 「移民家族」オーストラリアナショナルユニバーシティー 1975.1977.1980.ANL MS 3092
G.W.ブロートン 「マレーの男達」
ニューサウスウェールズ州農業省と稲作研究協会 「ニューサウスウェールズ州における米作り」 1984年
ニューサウスウェールズ州農業省 「農業新聞」 1972年10月 741
ビクトリア州農業省 「農業ジャーナル」 1913年8月 477
ビクトリア州農業省 「米作り」 パブリックレコードオフィス ビクトリア州レイバートン ギャリールウィス 「高須賀マリオ」に聞く 1991年9月

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